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建築家の使命 建築家とは依頼者と社会公共の利益を図るために、自分の持つ専門的な知識と能力と、そして経験と良心とに従い奉仕する、重い責任を担うことを自らに課する人間でなければなりません。
建築家は依頼者の利益を守ることを第一義とすることは申すまでもありませんが、設計や監理を通して関わる全ての人々に対して、常に中立、公平でなければならない職業と言うことができると思います。そして常に冷静で的確な判断力をもって、クライアント(依頼者)、工事施工者、近隣住民、環境、その他社会公共全体の利益に供すべき立場にあると言うことができると思います。そのためには常に自身を律する心構えと、客観的な姿勢を忘れることなく、誠意を持って事に当たることを欠いてはならない職業と言えます。
設計とは考えて、捨てることだと私は思います。そしてこの考える力と取捨選択する力は、建築家の資質と研鑽を積んで努力して身につけた能力とに左右されると私は思います。設計とは示された数多の条件を咀嚼し、その本質を理解し、求められる方向を正しく認識した上で、最善の結果を生むべく全霊をかけて取り組むものだと考えています。 例えば出来合いの家を求められる方は、たとえ無理をしてでも、その家に自分を合わせていくことを選択されたことになると思います。一方、自分の生き方に妥協せず、自分を合わせるのではなく、自分の生活スタイルに合ったものを求めようとするなら、それは出来合いの家の中には決して見つけることはできないと言っても過言ではないと思います。自分に合った、この世に一つだけのものを得ようとするなら、先ずそのためのシナリオがなければならないと思います。そのシナリオをクライアント(依頼者)と一緒に考え、形にしていくことが設計という作業であると言えます。そしてそのシナリオを元に、振り付けをし、衣装を選りすぐり、色を合わせ、光や照明の当たり方を決めるなど、より具体的に演出をしていくことが監理の作業とあると言えます。つまり設計と後で述べる監理とは、切り離すことのできない一体のものと言うことができます。 これは公共建築などについても全く同じことが言えます。もちろん規模が大きくなれば設計なくして建物はできませんが、設計をする側と行政の両側に、それを使う人間を想定してシナリオを作り、演出していくという想像力が欠如しているために、箱物と揶揄されるような心に響かない、見掛けだけ立派な建築がそこ彼処に生まれるのです。何のために、何故に、どのようにして、誰のために作るかという、明確な意思と主役となるべき相手(人間)不在では、血の通った設計も建築も決してできるものではありません。
さて、具体的な監理について、住宅を例にして少しお話いたします。
きちんとした設計図が揃ってなくても住宅を作ることはできますし、きちんとした設計図があれば監理をしなくても、住宅は作れます。 大手の建設会社をしても全く同じことが言えます。図面が理解できないことはもちろんありませんが、コストダウンと売上至上主義が絶対使命のゼネコン現場監理者からは、同等もしくは同質という減額提案が間違いなく提出されます。常駐監理で現場を見ていてもこれら次々に提出されるVE提案(*VE : Value Engineering)への対応は容易ではないのですから、監理がなければゼネコンの思いのままということになりかねません。
これらのことは監理という言葉を切り離して考えるから起こる弊害であり、誤解であると言えると思います。公共工事の設計と工事監理を分けて考える契約上の慣習が、本来分けて考えるべきではない設計という一連の行為を二分してしまったのです。 いかなる仕事であっても、地球の上なら出向く所存です。 原則として工事費の12〜15%とお考えください。 |
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