この図書館は洲本市が行った指名プロポーザルで選ばれ、設計から工事監理まで4年に亘って取り組んだ建築です。
この作品を最後に独立の意志を固めていたことで、単に図書館の設計に留まらず、歴史的変遷を含めた立地環境まで掘り下げ、そこから取り組もうとする保存と再生のあり方や、その裏側にある破壊というネガティブな部分に対しても正面から向き合い、全てを新しい建築として甦らせ未来に継承するという思いで取り組んだ建築です。
−洲本市立図書館・その1− (建築概要)
市民のための図書館
この図書館にはプロポーザルの審査段階から二人の図書館専門家と「新しい図書館をつくる会」という市民団体のメンバーが加わりました。この体制は基本設計が終了するまで続き、その間に8回の建設委員会を経て、スタートしてから約10ヶ月後に基本設計をまとめ上げることができました。図書館の設計だけに終わらず、特殊な敷地環境の中での取り組みでありましたが、図書館長、図書館専門家、市民代表、行政担当者、設計者が共通の目標に向って取り組んだという意味で、理想的に設計が進められた一例といえます。
ただどこでも起こり得ることですが、自分たちの図書館に対する思い入れが強いために、私たち(設計者)の提案を自分の作品を作ろうとしていると疑って見られたり、拒絶されたりということもありました。敷地に問題があるなら、もっと別な場所で作ればいいと言う発言まで飛び出しました。しかし、私はこの場所に図書館と旧カネボウ工場が呼応する形での新しい再生ができたら、この町の歴史を生きた形で継承できるすばらしい図書館になると確信していました。
当初市が予定していた敷地は現在より少し西にずれた、発電機棟と空調機械棟を含む一角でしたが、私はそれより東にずれた一角に図書館を建設することを提案しました。それは発電機棟と第二工場の間の美しい狭間を図書館側からは借景として取り込むことで、図書館を取り巻く旧カネボウの建築群との有機的な関係を構築できると考えたからです。図書館をつくる上でも、旧カネボウ工場を生かす上でもこの場所が最善と考えました。
この場所で提案したことで図書館へアプローチするための入口はほぼ限定されました。そのためプランニングをする上では、ゾーニングや動線計画などいくつもの難解な問題を解決しなければなりませんでした。そして工場内に図書館のモジュール(module: 基準単位(寸法))とは全く無関係に存在する既存煉瓦壁を、可能な限り残すために図書館モジュールと整合する公約数を探さなければなりませんでした。
新旧が呼応する三つの中庭
この図書館は既存煉瓦壁に開けられた開口を抜けると、ブラウジングと児童コーナーの大きなガラスに囲まれたスクエアに出ます。再生煉瓦を敷き詰めたこのスクエアを新しい図書館の外壁と旧工場の煉瓦壁が囲んでいます。その煉瓦壁には旧工場の木造トラスの跡や、打ち込まれた錆びた錨や、煉瓦に根を下ろした草や、そして塵突足元には美しい煉瓦アーチを残しています。それはこれら全てがこの工場の歴史を未来に伝える生きた資料と考えたからです。床に敷き詰めた煉瓦は、いくつもの工場で作られことが分かるように裏側の刻印を表に出したりしています。これらに気づいた大人や子供たちが、この工場が、この町が、明治の時代の大阪湾を中心としたもっと大きな経済圏の中にあったことや、更にはもっと広く西欧との関係にまで想像力を膨らませてくれるなら、この建築に埋め込んだソフトが動き出したと言えるかもしれません。
この図書館には後二つの中庭があります。このスクエアを含めてこれらの中庭は、新しいものと古いものが静かに呼応し、その中に図書館を展開するために設けています。その中の一つは発電機棟と第二工場の間に出来た狭間を借景として取り込んだ中庭です。ここはオーディオビジュアルのコーナーと、大型本を閲覧できるコーナーになっています。オーディオビジュアルのコーナーは既存煉瓦壁と図書館の主構造材との間に掛け渡された大型トップライトが、その巾を保ったまま床まで降りて発電機棟を屋根まで見上げることができる大開口と、美しい狭間を小さく切り取れるピクチャーウィンドウを持っています。大型本を閲覧できるコーナーは高さを低く抑えたガラス窓が発電機棟と向き合い、視線を下に下げることで美しい狭間を満喫できるようにしてあります。(残念なことですが、美しい中庭に再生することが可能でしたが、図書館竣工後に実施された旧ボイラー棟を含む一連の工事を設計・監理した東京の設計者によって、旧工場群の増築によって生み出されたオアシスように美しい狭間空間は破壊されてしまいました。)
最後の中庭は図書館北側に設けた植栽を施した庭です。北側からの優しい光を室内に入れると同時に、利用者がブラウジングしながら奥へ進むと見えてくる眼に優しい庭です。
この図書館は入口を入ると左が一般開架とレファレンス、右が児童開架、直進して階段を上がると視聴覚室があります。児童開架は専用のカウンターを持ち、西は入口スクエアに向って大きなガラス開口を持ち、南には煉瓦壁に開けられた2つのピクチャーウィンドウを持っています。また南側と東側の既存煉瓦壁と図書館の主構造材との間には大型トップライトが掛け渡され。自然採光の不足分を補っています。
子供に本物を見せる
東側の既存煉瓦壁に開けられた小さな開口を抜けると、両側が一面ガラスの短い廊下の先にお話の部屋が現れます。子供たちをお話の世界に誘う別の空間としてこの8角形の部屋を作りましたが、この部屋に入る両側が一面ガラスの短い廊下に私から子供たちへのメッセージを込めています。それはガラスを通して見える本物の煉瓦壁が持つ力強さ、明治の職人の確かな仕事、そこに手を加えた私たちの足跡、それら本物を子供たちに残したいという思いです。
−洲本市立図書館・その2− (私の建築観)
20世紀初めから建設が始まった鐘紡洲本工場は、明治期の美しい煉瓦建築と度重なる増築によって生まれた建築群としての造形美を見せていました。工場の鋸屋根の形状はそのまま妻側の煉瓦壁の造形として現れ、それら工場群のシンボルのようにまた重奏する楽器のように、美しい二つの塵突が立っていました。百年近い風雨に耐えた煉瓦は深い味わいを醸し、重厚で高潔ささえ感じる姿を凛と横たえていました。この姿に改めて明治建築の力強さを感じ、この本物だけが持つ力強さ、温かさ、包容力をこの図書館と融合させることこそが真の保存であり再生であると考えました。
私にとって鬼頭梓氏のもとでの最後の仕事となったこの建物は、自分が建築というものについて考えてきたことの一つの帰結であったと言えます。とりわけグロリアチャペル以降続く更なる試みの実践にあって、鬼頭梓氏の下で考えてきた図書館というものに対する自分なりの解であると思っています。
如何なる条件の下でも柔軟に対応する、自己主張を押さえ常に客観的にそこに相応しい姿を追及する、まさにそれはグロリアチャペルで学んだ「常に基本に戻れるスタンスを自分の中に確保しておく」ことの実践であったと言えます。
この図書館を見て、「穏やか」という言葉をいただきました。建築というものが人も含めたあらゆるものとの間に有機的な結び付きを作り得て初めて生まれる、この穏やかなる空間こそが他者に断ち切られることのない、本との静かな出会いを与えてくれるのではないかと思います。
−洲本市立図書館・その3− (煉瓦職人 故・高山彦八郎)
煉瓦との戦い
煉瓦との戦いを振り返ると、そら恐ろしくなります。
初めて第2工場に足を踏み入れた時、そこには廃墟に向う建築の美しさがありました。淀んだ冷たい空気の中を、鳩だけが棲みついている第2工場を抜け、第3工場に足を踏み入れると、そこには白い布をかけられた往年の何十台という織機が整然と並んでいました。これらを見たことが、私の心に火をつけ、残せるものは全て残したいという覚悟へとつながりました。
既存調査により、煉瓦壁の強度、壁厚、基礎の形状などが判ってきましたが、工場内部は全てモルタルが塗られるか塗装が施してあり、その下の煉瓦の状態はほとんど予測できない状態でした。そんな状態の煉瓦壁から全てのモルタルや塗装を剥がして、尚且つ、それを仕上げとして使おうというのです。
一方、この事業の主体は旧カネボウ工場の保存ではなく、あくまで図書館建設であり補助金の関係からも建設単価に上限が決められ、そこに保存・再生工事分の上乗せを認めてもらえる状況にはありませんでした。当然、煉瓦壁保存の仕方・方法等も場所ごとの無駄を極力押えた取り組みを必要としました。
塵突の周りの床下は鉄筋コンクリート構造の2重床になって雨水が溜まり、そこから伸びるコンクリートダクトが、工場各所に設けられた集塵筒につながっているのも着工して判明しました。基礎の厚みや深さも場所ごとにまちまちであることも同じく着工後に判明しました。工事の振動によって崩れるかもしれない不安や、煉瓦工事が予算内に収まるかという不安をかかえながら、創業時の改修によりほとんど壁がない部分は、古い図面を元に再生を試みました。
尊敬すべき煉瓦職人たち
煉瓦職人・故高山彦八郎氏とは30年近い付き合いがあります。自分の信念を決して曲げず、人に媚びず、新しいことに果敢に目を向け、包容力があり、温和な人柄です。2人で海水がしみ出る煉瓦基礎の底部まで降りて状態を見たり、煉瓦表面の汚れを落とすための高圧温水洗浄をどこで止めるかや、図面のない再生をどのようにやるかを議論したり、再生に使用する煉瓦の量は本当に足りるかとやりあったり、すべての部分に2人の苦渋の決断の跡がしみ込んでいます。強度確認のコア抜きのために出来た何箇所もの丸穴を、彼は私の想像を超える方法で見事に塞いでみせました。2つの建築の間に生まれた挟間の空間の美しさを見せるために、中庭に新たに設けた開口について、私は一切の図面を描かず、すべて職人の感性にまかせると言いながら、気に入らなかったら壊すと言って喧嘩になったり、足下のボーダーに使う特注煉瓦の仕上がりの確認と、補給用煉瓦を探して中国を何百キロも車で走り回ったり、この職人との思い出を数えあげればきりがありません。
このような状況の中で現在の姿にまで成し得たのは、この偉大な煉瓦職人の存在と、彼を助け何万枚という煉瓦を一個づつ塊から外し、超音波ケレンした四国の職人、同じくこの何万枚という煉瓦を一個づつ積み上げた九州の職人、同じく何万枚という煉瓦を一個づつ中庭に敷き並べた大阪の職人があってのことだと思っています。そして何より本物を作るという強い意志と誇りがあって、一丸となって成し遂げることができたと思っています。
−洲本市立図書館・その4− (左官職人 久住 章)
煉瓦に呼応して左官仕事による土壁を使いたいと考えました。実際には耐久性の問題から、公共建築に土壁そのものを使用することは困難と判断し、土とセメントを混ぜた擬土仕上げとました。
採用の理由は自然の風雨にさらされ、経年変化することで風合いを増し、既存煉瓦と穏やかに調和すると考えたからです。また、この土地の気候を知り、自在に土を使いこなすことのできる一人の左官職人の存在があったことも、この仕上げに踏み切った理由の1つです。
二人で淡路島の農家の古い納屋に残る土壁を見て周りながら、次第にここに合う色と風合いを、幾体もの見本作りを経て決定しました。壁にはクラックが入るから目地を切りたいという申し出に対して、法隆寺の土塀のように出来るなら応じると答えました。さすがの一級の職人をしても、千年以上経過した法隆寺の土塀の再現は不可能でした。最終的に材料の調合と下地の補強により、目地を入れずに終えました。
振り返ると、フリーハンドのスケッチを持って彼の仕事場を訪ねましたが、すべての設計の仕事を通して私が唯一仕事の受諾を請うた男です。煉瓦職人もそうですが、私はこの仕事を成し遂げることの出来る人間を求めたのだと思います。
−洲本市立図書館・その5− (塗装職人 中田寛治)
現場では何十枚にも及ぶ色見本を作り色を決定していきます。通常は大手の塗装メーカーに見本の製作依頼をして、出来てくるまでに2週間近くがかかります。私のように得心が行くまで色の決定ができない人間だと、いつも工程上許されるぎりぎりまで引き伸ばすことになります。
ある日、現場事務所の私の部屋に、色を決めましょうと言って一人の職人が入ってきました。先ず彼が言ったことは、時間が無いので、大手の塗装メーカーの塗料だと間に合わなくなるので、自分の無理が利くメーカーのものに変えて欲しいという提案でした。唐突な申し出と、初めて聞くメーカー名に、ゼネコンを通してくれと答えたのが彼との最初の出会いでした。この最初の出会いから、彼との現場での最短で最大の効率を上げる取り組みが始まりました。私が言うと、彼はすぐにその色を作って来ます。それに対して注文をすると、またすぐにその色を作って来ます。現場で確かめようと言って、二人で現場に入り、一つ一つ決まっていく、私のどんな要求もこなせるという自信がその職人にはみなぎり、私は全幅の信頼を寄せて彼に接しました。ある時は、私が決めたことを何も言わず仕上げて見せて、私を呼んでこれでいいのかと聞くこともありました。私の心の中での違ったという叫びを知ってか、直してもいいと言うのです。最初から、私が得心しないと思いながら、黙ってやってみせる中に、この職人のすごさを感じたものです。
この建物の中に職員が使う螺旋階段があります。この階段は、最初地元の左官屋が担当しましたが、螺旋の曲線がうまく出来ず、これをこの塗装職人が仕上げました。見学者から何故こんな裏方の階段に手間とお金をかけるのかとよく聞かれます。でも私だけは分かっています。この階段は職人としての一人の男のプライドと意地の賜物だということを。
−洲本市立図書館・その6− (BELCA賞寄稿文より抜粋)
旧カネボウ洲本工場
淡路島でのカネボウの歴史は明治33年の洲本支店開業に始まり、明治40年の洲本川付替えにより生じた広大な土地へのカネボウ新工場誘致運動を機に、洲本への本格的進出に至ったことが、「カネボウ洲本工場百年史」に記されている。
その後、明治42年に完成した第二工場を皮切りに、明治末期から昭和初期にかけて、第三、第四、第五工場と、次々に増築・増設を重ね、それらが鋸屋根を持つ煉瓦造建築群として威容を誇っていた。しかし順調に成長と発展を遂げて来た国内紡績産業も、昭和49年以降国内の需要減退によって、紡績業界は慢性的な業績不振に見舞われ衰退の一途をたどり始め、この洲本工場も次々に操業を休止し、昭和61年をもって完全な操業停止に至り、この広大な工場群も荒れるにまかせる状態となっていた。
図書館建設
この地に洲本市による新都心整備計画の下で、旧原綿倉庫は美術館として、旧ボイラー棟はレストランとして生まれ変わり、これらの施設と共に旧工場広場を囲むエリアを文化ゾーンとして整備し、その中心施設に図書館が位置付けられていた。
ここで求められたのは図書館の設計と合わせて、旧カネボウ工場の保存と再生のあり方を同時に提案し、解決することであった。当初、旧工場広場に対峙して建つ、二つの塵突をランドマークとして残し、周辺の組積造煉瓦建築群全体の保存を提案したが、現在、その後の再開発事業により、惜しくも初期の提案とは全く異なる環境形成に至っている。廻りを取り巻く環境は大きく様変わりしたが、図書館は旧カネボウ工場群全体を保存整備し、その中に新しい機能・用途を嵌め込んでいくべき、という当初の全体構想に基づき旧第二工場の一角に嵌め込まれている。
想像以上の改修と傷み
旧第二工場は昭和21年の南海地震や、平成7年の阪神・淡路大震災により軽微な被害は受けていたが、それ以上に操業時の度重なる増設や改修が甚だしく、また南と東側煉瓦壁の一部以外、全ての煉瓦面には漆喰やモルタルの上に塗装が施され、場所によっては煉瓦を伝ってくる地下水の滲出を防止する為か、アスファルトまでが塗られており、下に隠れる煉瓦の状態は全く判らない有様だった。また操業停止後の建物の傷みも甚大で、一部創業時の形態に近づける復元的作業も求められた。
保存と再生
ここで取り組んだ保存・再生とは、新旧が呼応し合う空間を創出することで、旧第二工場の一部に新たな命を吹き込み、新生図書館の主要な要素として一体化することであった。それは形態だけの保存を優先させて、図書館機能を犠牲にすることも、図書館機能を優先させての不要な破壊や、見せ掛けだけのレトロな復元も避けることであった。
この図書館は5m〜9mあった煉瓦壁を図書館入口のある南壁のみを当時のままの高さで残し、それ以外は全て高さを切断して取り込んでいる。外壁として使った南側と東側の煉瓦壁と、中庭の煉瓦壁の一部以外は、工場内部を区画していた防火・耐力壁で、その厚さも40cm〜60cmとまちまちであった。施工の程度や精度もまたまちまちであったが、改修されずに残った創業当時のままの外壁煉瓦は、百年近い時の経過にビクともせず、同じく煉瓦壁頂部や煉瓦柱頭に施工されたモルタル笠木も、しっかりと雨から内部を守っていた。明治の職人の確かな仕事に支えられたこの笠木の存在が、図書館外壁を左官仕上で取り組むきっかけともなった。
煉瓦壁の補強
外壁となる南と東側の煉瓦壁はL型フックを煉瓦に取り付け、内部に新設されたコンクリート躯体と一体化する方法を採ったが、この部分は煉瓦壁に設ける開口の大きさがプロポーションの制約を受けるため、主構造部を煉瓦壁から3m後退させ、特殊合せガラスを使用し熱負荷を低減した大型トップライトにより自然光を取り入れている。
図書館入口のある中庭廻りは以下の補強方法を組み合わせている。
・ 内部に鉄骨で櫓を組んで補強された塵突
・ 鉄筋コンクリート造の柱・梁により煉瓦壁を支えている入口開口部廻り
・ 鉄筋コンクリート造の壁の両側に煉瓦を新たに積み直している、中庭に面する西壁
・ タイロッドで補強された自立煉瓦壁
この自立煉瓦壁は、壁下部を両側から45゚の角度でステンレスピンによって縫合し、旧基礎を両側から鉄筋コンクリート造の地中梁で挟み、この梁に取り付けた下部鋳物金物と、煉瓦壁頂部の鉄筋コンクリート造の臥梁に打ち込んだ上部鋳物金物をタイロッドで繋ぎ転倒防止を図っている。北側中庭を囲む自立煉瓦壁も、この中庭部分と同じ補強方法を採用している。図書館内部で自立壁として残した煉瓦壁は、旧基礎を同じく両側から鉄筋コンクリート造の地中梁で挟み、上部は主構造材から跳ね出した水平梁で押さえている。この部分の煉瓦壁にはブラウジングコーナーの鉄骨屋根が取り付いているが、煉瓦壁に直接力が加わらないように配慮している。
素材
主仕上材にはコンクリート打放し素地仕上(外部は撥水材塗布の上にフッ素樹脂透明塗装)と左官による擬土仕上を採用した。言うまでもなく、コンクリート打放しは打設不良を許さない細心の監理と施工を要する。何度にも及ぶ試験打ちで、型枠材料の癖を見つけ、使用可能な材質を絞り込んでいき、型枠建て込みの検討、何重ものノロ止め対策、コンクリート打設時の材料管理、打ち込みの速度調整、打設後の養生等、綿密な計画があって初めて硬く緻密なコンクリートを生み出すことが出来る。仕上の有無に拘わらず、この緻密なコンクリートの存在が、次なる工程の仕上がりの質に影響を与える。あらゆる職種の人達がこの質を共有することが、現場全体の質の向上に計り知れない相乗効果をもたらすのである。また、将来の保守に対しても、全ての基礎となる素地をきちんと作ることが、何より重要と考えている。
百年煉瓦に対するもう一つの主仕上材としての左官による擬土仕上の選択は、この淡路島を拠点に活動する左官職人の存在なくしては為し得なかった。この島の気候風土を知り尽くし、自在に左官材料を扱える一人の人間による繊細な調合があってこそ、百年煉瓦と共に年を重ねていける壁に仕上ったと思っている。そして何より将来に亙って、保守への強力な助言者としてこの建物を見守り続けてくれるものと信じている。
継承すべき財産
ここでは古い煉瓦造建築の保存・再生に対して、決して大上段に構えてはいない。必要と判断すれば煉瓦壁を切断し、孔を開け、積み直しもしている。しかし先人の仕事に心より敬意を払い、たとえ元の形が変わろうと、新しい建築としての生きた再生こそを追い求めた。操業時に開けられた多くの開口を塞ぎ、中庭の床材として多くの煉瓦を再利用している。解体煉瓦の塊から一個づつ丁寧に外し、超音波でケレンし再利用した煉瓦の数は9万本を軽く超えている。この煉瓦を敷き詰めた図書館入口の中庭には、かつての紡績工場としての歴史の記憶を可能な限り残している。塵突には木の柱の跡をシルエットとして残している。雨漏りの跡もそこに根を張る小さな草もそのまま残している。煉瓦壁に刻まれたそれら全てが工場の歴史であり、ここで働き洲本市の発展を支えた多くの人々の痕跡と考えたからである。
これら全てが未来に継承すべきこの図書館の貴重な財産であり、郷土資料であると考えている。
(以上、BELCA賞寄稿文より抜粋)
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