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風のかたち

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生きる

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小さな記事


明石海峡大橋の開通を機に、職を失う海運関係者の離職問題が紙面を賑わせている。何千人かの再就職の問題がクローズアップされる中、その周辺で依存した暮らしを営む人びとの生活や将来への展望、運賃競争の勝敗だけによって長い船舶輸送の歴史に幕を下ろそうとしていることについての記事は影が薄いように思う。 これらの側面からこの問題を考えることは、新聞社支局員の積極的な記事作りをもってして可能となるし、地方新聞だからこそ出来る、きめ細かい記事作りも期待できると思う。

五月、東京からこの島にやって来た時、淡路島は玉ねぎの収穫を待つ、豊かで穏やかな風景が広がっていた。 この島に何度も足を運ぶ中で、海の存在が、いかに時間地図を我々の日常の感覚から変えてしまうかをつくづくと感じたものだ。 目の前にある島に高速船の欠航により渡れないという、日頃鉄道が移動の手段という生活を送っている者からすると、このギャップは何度経験しても気の重いものだった。 そんなことを何度か経験する中で、天候不順が解消しても欠航を継続することがあることに気付いた。

独占に近い船会社は公共交通機関としての使命感に乏しく、競争がないことによる会社側の勝手な都合は、利用者側の我慢と忍耐で支えられてきた。 それが今度は橋の開通による採算割れというだけの理由から撤退しようとしている。 新しい仕事が確保されなければ無期限全面ストをすると、ストが回避される直前まで言っていた。

この島に住んで、夕刊がない、記事が遅れているなど不満もあったが、淡路版には心和む記事も多く、あえて地方新聞を選んだことを一人悦にいってもいた。 しかし今回の船会社の撤退の問題は、従業員の離職問題だけではなく、もっと踏み込んだ、島の特異性−それは歴史や文化や風土や慣習など−とも関連させて論じられなければならないことではないかと思う。 船会社の都合だけで結論を出されるのは早急過ぎるのではないだろうか。

この島で生活を始めた頃、選択肢がないことに不満を持った。流通の発達により、島外からあらゆる種類の品物が入り込んで来るが、これらは全てマーケティングされ、平均化され選択の巾を狭められた、所謂押し付けの品々、それら与えられたものに満足しさえすれば、それで日常生活に何らの不便も生じはしないが、もっと別のものをと思うと、手に入らない物がいかに多いことだろうか。

しかしその反面、昔ながらの正業を細々と守っている商店には、地味だが本物の品々が並び、多少値段は高くてもそれらを求めたくなる。 島民が船に頼らなければならない生活は、選択の余地がないということで、この流通の話に通じるような気がする。

しかし不便が故に豊かなこと、満たされること、安らぐこと等々、現代社会の尺度では計れないことがいくつもある。 船に乗って港を離れる時の期待感。帰路、夕日に向かって島に戻って来る時の安心感。船の上から遠ざかる島を眺め、自分たちの住む世界の大きさを考える。 それは、また別の世界に目を向ける感性を知らず知らずのうちに養う。 点から点への単なる移動手段としてではなく、その間にある満たされた時間を共有することで、人としての思いやりを身に付ける、そんな自然な教育の場でもあったと思う。

バスで多くの観光客を呼び込むことが、この島の未来にとって最も優先すべき方策とは言えないと思える。 不便さがあってもそれに勝る満足感、充実感を得られる方向を探ることも大切なのではないだろうか。

島は海に囲まれていてこそ島であると思う。橋は島民や島外からの観光客にとっての選択肢が増えたと考えればよいのではないだろうか。船会社は採算だけで今日まで自分達の生活を支えてくれた人びととの関係を、一方的に断ち切るべきではなく、もう少し真剣に共存の道を模索してみるべきではないかと思う。 そして新聞は離職者保護からだけの側面でこの問題を取り上げるべきではないと思う。 これは地方文化存続への警鐘を鳴らす問題でもあるのだから。

生きる −選択できる自由があること