設計者を選ぶということ
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建物は設計図書と監理者の指示とに従ってつくられる。その設計図書を作成するのが設計者であり、本来的にはその同じ設計者の監理のもとで工事が行われる。よい建物ができるかどうか、丈夫で耐久力のある建物ができるかどうか、使いやすく活動しやすい建物ができるかどうか、美しい建物ができるかどうか、街並みに調和し、人々に愛される建物ができるかどうか、こういったことはすべて第一に設計と監理の如何にかかわっている。 工事の良しあしももちろん重要だが、基本は設計監理にある。従ってその担い手である建築家を選ぶということは、つくられるであろう建物の価値をほとんど決定してしまう行為に他ならない。かつて前川國男は、「建物をつくろうとする時、そのクライアントの果たすべき最大の義務は、その建物に最もふさわしい建築家を選ぶことにある」、と言われた。いい建物が欲しいと心から願っているクライアントにとっては、恐らく当然のことでありまがら、何故前川がことさらにそう言わなければならなかったか、そのあたりの状況は今も変わっていない。 本当に建物を大切だと思い、よい建物が欲しいと願う人は、必ず設計監理を重要だと考え、一生懸命に気に入る建築家を探すのである。街の中で自分の気に入った建物にめぐりあえば、その建物を設計した建築家が誰であったかを調べ、その同じ建築家の設計した他の建物も探して見て歩き、その人の書いたものを読み、そのクライアントに会って意見を聞き、最後には直接本人に会って話を聞く。そこに共鳴するものがあり、信頼できると判断した時、はじめて仕事を依頼するのである。そしてあらゆる手段を使って自分の考えや希望を建築家に伝え、建築家の書いたスケッチについて話を聞き、それに対する自分の考えを述べ、十分な時間をかけて話し合いを重ねてゆく。それを支えるものは両者の間の信頼関係であり、そのような積み重ねの上に出来上がってゆく設計は、実は建築家とクライアントの共同の成果なのである。個人の住宅であればこのような関係は決して珍しくはない。しかしクライアントが組織になってくると、だんだんこうはいかなくなって、公共の建物ではほとんど得難い関係になってしまう。それはいったいどうしてなのだろうか。 役所は本当は建物を大切には思っていない、いい建物が欲しいとは考えていないのだ、というのは余りにも早計であろう。役所のつくる建物は役所のためにつくられるのではない。市民のために、市民の税金によってつくられる。本当のクライアントは市民なのである。その真のクライアントは、しかし表に出ることはない。市民という、漠として捉えようのないクライアントが、自分で建築家を探し出すことはできない。問題は、その真のクライアントと、実際上のクライアントである役所の担当者との間を結びつけるものがいるかいないか、恐らく問題のキーポイントはそこにある。 日本の公共建築のつくられ方自体の中に、実は大きな問題がひそんでいるのだと私は思う。例えば何かある一つの公共施設をつくるとする。通常どの役所でも担当部課が計画を練り、建築課がそれを受けて、そのもとで設計と工事が行われてゆく。そしてその施設の経営者、施設の長となるべき人は、やがて建物が竣工するという間際になってようやく決まるのである。普通の社会であれば、経営者がまずはマーケットリサーチを行い、模索しながら自分の理念に基づいた経営方針を打ち立てて、それにふさわしい建物をつくろうとするのが当然の経過なのだが、役所ではそれが逆転する。まず施設が計画されつくられて、後から経営者が決まるのである。この施設優先とう言うべき思想は日本中に浸透していて、誰もこれを不思議に思わない。時に不思議に思う人がいても、役所だから変えられないと決めてかかる、このような経過で決められた経営者は、その建物には何の責任もないのだから、具合の悪いことはすべて建物のせいにすれば済む。事実、ずさんな計画で流行を追うかのように各地につくられた大きなオーディトリアムは、今閑古鳥が鳴いて自治体の大きなお荷物になっている。まず経営者を決めて、その責任のもとで計画を立ててこなかったツケが廻っているのである。 このようなやり方の間違いを言い続けてきた人の一人に前川恒雄氏がいる。30年前、東京日野市の図書館長に就任され、一台のブックモビールで徹底したサービスを展開し、2年後には早くも貸出は日本一となったのだが、氏のとられた方針は、施設優先とは全く逆のアプローチであった。まず活動を開始し、必要に迫られてはじめて施設をつくっていったのである。ブックモビールではとてもまかないきれなくなると役所の出張所の一隅に分館を置き、あるいは都電の廃車を団地の中において児童分館とし、いよいよ中央館の計画に着手したのは、設立して6年経ってからであった。1973年8月号の『新建築』に、前川さんはこう書いておられる。「一台の移動図書館で出発したが、もちろんこれでいいと思っていたわけではない。だだ分館にしても中央館にしても、住民が必要だと言い、図書館で働く我々も必要だと納得しない限りつくる必要はないと思った。本当に必要であるかどうかはっきりしない建物が、市長や知事の思いつきで、少し『勉強した』役人の功名心で、あるいは中央官庁の補助金つきの机上プランでどんどんできている。しかし、それらが住民にとって一体何だったのだろうか」と。 6年間の情熱を傾けた活動を通じて、前川さんは市民が何を望んでいるかを身をもって知ったのである。それが中央館の構想に集約された。前川さんがすなわち市民の代弁者であり、職員の代弁者であった。そしてその前川さんは「建築は設計者によってほとんど決定される。これは当たり前のことだが、分館を設計してもらって私には痛いほど分かっていた(註)。私の第一の任務は良い設計者を選び、その人に設計を頼むことであった」と同じ誌上に続けて書いておられる。
私は、その前川さんに選ばれる光栄に浴したのだが、その後の設計の過程は、私と前川さんの真剣勝負の連続であった。それはさておき、前川さんは、「図書館を新しくつくろうとするならは、まず図書館長を決めなくてはいけない、その図書館長の責任において市民の要求に立脚した構想を立て、それに基づいて設計に入らなければいけない」、と主張し続けたのである。 15年前、前川さんは滋賀県立図書館長に迎えられた。以後前川さんは、県内の市町村立図書館の振興に献身的な努力と情熱をつぎ込まれるのだが、これから新しく図書館をつくろうとする市町村に対して、まず図書館長を、と熱っぽく説き続けた。 こうして滋賀県下では、まず能力と見識と情熱のある司書を探し出し、図書館設立準備室長として迎えるのが常識になった。すなわち館長予定者である。そして何人かのスタッフの司書をおいて準備を重ね、室長はその市町村の市民の要求の把握に努めながら計画を立て、建築家の選択にも中心となって参画し、設計の打ち合わせの当事者としてその任にあたるのである。室長たちの自分の生涯をかけた真剣な取り組みが、次々と大きな成果を生んだ。今や滋賀県は、市町村立の図書館では、その活動は日本のトップレベルに立っているのである。 建築家の前川さんは、設計者選択はクライアントの義務であると言い、図書館長であられた前川さんは、真のクライアントである市民になりかわるべき図書館長をまず決めなくてはいけないと説いた。設計者選択の問題は、その根底において、実はそれ以前の問題、すなわちそのつくろうとする施設が本当に市民にとって必要なものなのかどうか、市民が真のクライアントであるのかどうか、にかかっているのである。市民の要求に支えられ、必要にせまられて施設がつくられるとき、はじめて設計者の選択は市民にとっても大きな関心事となり、誰を選ぶべきかが真剣な議論の対象となるのである。本質的な解決への第一歩はそこにしかない、と私は考えている。 (1995.10 鬼頭 梓 当時、新日本建築家協会会長) |
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